歯と文明
愛育 恩賜財団母子愛育会 昭和56年6月
歯科臨床医として近年特に気になることは歯列の不正である。下顎が上顎よりも前に出ていたり、上顎の糸切り歯が、鬼歯といわれるように歯ぐきの上の方から外向きに生えていたり、また前歯がひどく重なり合うように生えているとか、奥歯が歯並びから全然はずれて内側に、まれに外側に出てしまって、上下すれ違いのように噛み合わなかったり、それこそてんでばらばらの状態の子供が10人中、5、6人までのように見受けられる。
このような歯列不正は、40〜50年前までは、鬼歯、八重歯、受け口などと呼ばれ、珍しいものであった。戦前、戦中、戦後の各時期に、小、中、高校の口腔検査を受け持った経験から、この歯並びの不正が次第に増えていることを感じてはいたが、ここ数年、今さらのように、その度の進み方と増え方のひどさに驚かされる。
歯列不正は口腔破壊のもと生え変わった歯が歯並びと噛み合わせの悪さから、洗ってもうがいをしても食べかすが滞るために、必ずといえるほどに次々にできるムシ歯と歯槽膿漏の、またそれゆえに治療もしにくいし、努力して治しても所詮自分の体の力で自然に元通りに治ったのとは全く異なり、病因をそのままにしての人工物での繕(つくろ)いをしただけの歯科治療であるからには、必ずまた悪くなる。くり返し治療しながらも遂には抜けてしまい,入れ歯の厄介になり,年々歳々のようにやりかえが行われ,次第に抜けて一本無しになり,総入れ歯がまた具合悪くなって,何度も何度も作り変えられる。平均寿命70歳過ぎまでのそのおぞましさ。
今は子どもの、この人達のこれからの一生が思われ、何とも気が重い。
歯列不正の矯正と予防そのような人達の将来を予防するために、この乱杭歯を矯正しなければならないが、歯の並びかえは顎の形までを変えなければならないので何年もかかるし、健康保険ではできず多額の費用がかかる。だからとて不当に急いだりすればあと戻りしたり、抜けてしまったり、ムシ歯を作ったりする。そこで歯列が不正になる前に、このような発育異常をこそ予防することが必要となる。まずこのような不調の原因は? ということであるが、乳歯列の時期は正常であったのに生え変わったあとになぜ歯列の不正が起こってくるのか。
人類が火を使って調理を覚えてから、栄養の高い軟食物を摂るようになって、噛む力もその時間もずっと少なくなってから3、4百万年の間に、顎と歯は進化して顎は小さく歯の数は減るが、それらがぴったり同時に変化しないために、親知らず歯が生えにくく、また前歯が少し押しあうことがある。
しかし,今ここで考えたいのは、このような進化によるものではなく、上顎は丁度であっても下顎だけ小さかったり、また下顎の左だけに場所が足りなくてはみ出た歯があったりなど、重度であるばかりか遺伝の逸脱と思しい歯列不正についてである。
かつては大人の顎に成りきるまでに、成長を十分にする条件が満されなかった結果(乳歯がムシ歯のため、硬いものを避けて、噛むことをしないので、刺激不足で小さくなったりいびつになったり)乱杭となると考えられていたが、下顎は普通に並んでいるが上顎がひどく小さく乱杭で受け口の場合だとか、上下ともに顎が小さく歯が大きすぎる場合とかは理解しにくい。それにもまして乳歯列の不正、顎の変形、奇形のあることは一般にはあまり知られていない。例えば口唇裂(みつくち)、口蓋裂、口唇口蓋裂の場合の顎の状態と乳歯列、咬み合わせの乱れ、また上顎に変型があって下顎が大きすぎるダウン症(蒙古症)患者の場合なども含めて、それぞれの原因を考えねばならない。
歯列不正の原因を探れば—なぜ? からだの異常
W・A・プライス(1870〜1948)はその著書『食生活と身体の退化』(1945年増補再版)の序文に次のように述べている。
『本書を増補・再版する必要性が増大してきたのは,我々の直面している現代文明の危機が、実は我々自身の作り出したものであることがますます明らかになってきたからである。中でも警鐘乱打の必要な非常事態とは、食糧資源の漸減,二つには青少年非行の漸増傾向、さらには義務教育段階の児童生徒の知能低下に対処する現世界の取り組み方についてである。
それに加えて、もう一つ恐慌的状況が存在している。それは今日(1945)合衆国では100の妊娠のうち25は生きて日の目を見るに至らないし、そのうち15は怪物と分類したくなるほどの著しい奇形であるという事実である。生きて生まれる75人の子どものうち37%すなわち28人は、生後に退化病の現われが原因となり15年以内には廃疾となることが明らかになっていることである。したがって100人のうち53人の子どもは、死んで生まれるか、生まれてからも近代文明社会の重荷になるか、どちらかであるということになる。残る男女47人、あるいは23人ずつの男と女とが、事業を推進し、家庭をつくり、兵役を負担するといった責任をすべて負うことになる。その23人の男性全員を徴兵したとしても、合衆国上院の報告によれば、その40%が兵役に耐えられないだろうという。また種族の保存の責任もこの男女23人ずつの肩にかかっている』
このような記述をみた時、この35年前のアメリカの状態が丁度今のわれわれの身近の状態と全く似ていることに驚かされた。毎日のように日本人の変調と異常が,今日の老人について,また今日も発育盛りの子どもについて,肉体的な,あるいは精神的な問題について驚異的に報道されている。
文明の弱点を知るべしわれわれの身近になぜこのような変化が起ってくるのか。お誕生前の子どものほとんどがムシ歯になっていたり、乳歯全部がムシ歯で無くなっている子どもがいたり、急激に歯が悪くなり,生え変わればてんでばらばらの生え方で全くの乱杭歯の子どもが急激に増えたのはなぜなのか。
プライスのこの著書は、急激に文明食品に変えた場合に、このような変化が起こることを、世界各地の14種族について、交易などによる食生活の急変がムシ歯を多発させ、その人達の子どもには歯列不正が極端に現われたということを150枚程の実例写真で示し、また家畜の飼育過程で歯列の不正、顎、口蓋の奇形などの現われる場合を調査して、このような奇形は遺伝ではなく、人工飼料にビタミンAなどの欠乏していたことが正常な遺伝を妨害して生じたのだと、この障害家畜に欠乏要素(ビタミンAなど)を添加飼育し、健全な仔を生ませ育てさせた多くの事例で明らかに報告している。
またビタミンEもこの問題に強力に関係しているし、現在知られている諸要素の相互関連的効果、まだ未知な種々の要素などの配慮が必要であること、つまり肥沃な自然の飼料に求めなければならないことを強調している。裏返せば生体に対しての拙速な改良の危険性、栄養科学の未熟さ、文明の弱点を指摘して、伝統を深く学ぶことの重要性を叫び、アメリカ国民に訴えている。筆者はこれを全訳して自費出版した。
文明と食生活の乱れ (下図)歴史家は、人類の歴史は至福の社会に向って進む足跡である、と言う。豊かさと安楽を求め人々は文明社会を進めようとする。
われわれ日本人も神代の昔から、日本列島の中でこのような状態を模索し、築き上げてきたが、鉄砲伝来このかた約300年は、異国の文明に接する機会が次第に多くなり、その文明がもたらす驚異・脅威に動かされ、とくにペリー渡来の150年ほど前からは、あらゆる部門で急速に西欧文明を吸収する努力をしてきた。
しかし食品、食事についてみれば、その変化はごく僅かで、砂糖と牛肉、牛乳が一部の人に広まり出した程度にすぎなかった。ただ白米食は明治末期、電力精白米機の改良によって精白能力が向上したための全国普及はめざましく、砂糖と共にムシ歯の元凶とされ、ムシ歯は文明病と呼ばれるようになったがまだ一般的ではなかった。
35年前の敗戦を境として食生活は一変した。敗戦直後は飢餓寸前の食糧難を救援食糧の外来小麦粉、大豆、脱脂粉乳などによって救われ、アメリカの農業政策によるパン食励行の圧力がかかり、戦勝国の文明の利器に驚嘆しながらアタリカ文明に心酔した結果、まさに食生活は一変した。国民全員が牛肉好きになり,ほとんど全員がパン食を励行し、野菜の副食は栄養価に乏しいと遠ざけられ、野菜嫌いの子どもが一般化し、ビタミンA供給源の緑黄野菜などは明らかにつけ足しの飾りとなってしまった。
今や明らかに、ビタミンA、Eをはじめミネラルなどの欠乏した食事、添加物いっぱいの近代文明食品の常用が健康な遺伝を阻害し、顎の発達を妨げ、歯列を乱すというプライスの論説に注目すべきときではなかろうか。
近年、目本では飼育ザルの中に多くの奇形を発見し、その奇形は遺伝ではなく、現在われわれが食している大豆やリンゴなどの飼料づけの為害作用ではないかと疑われ始めている。
現在のわれわれのすべての食品は、何らかの形で現代文明の生産過程によって作られている商品であること、居住地域外の産品であることは周知のことである。それらがわれわれに何を与え、どう影響し、何を残すかは W・A・プライスのこの著書をはじめ、作家有吉佐和子氏の書かれた『複合汚染』,その他マスコミによって絶えず取り上げられている。
おわりに文明化された近代食糧産品は畜産、乳製品を含めわれわれの生活に豊かさと多様さを与えていることは否めない。それにわれわれはもはや完全には自然人に帰ることはできない、とするならばただ一つできることは、より一層、真の文明を求めての努力を尽くす中で、最高の健康保持の道を求めるしかないと思う。
その途次にあってわれわれの健康を保ち、子孫の健康増進を計らなければならない。歯科、口腔科ではせめて口腔の奇形と不調和を予防し健康化するために、まさに有吉氏らの主張のように、日本産の米をビタミンB、E、その他有効物質を捨てることなく十分噛みしめ、ビタミンAなどの必須物質の供給源の野菜の適量を必ず摂取すべきであると警告しなければならない。
資源最少国の国民が、子どもの幸せを考えながら、自分の幸せを築くためには国土、環境の中の自分を知りながら、真の文明を進めて行かなければならない。そのために多くの労力と時間を必要とするであろう。したがって簡便な食事も必要であろう。今後必ず、為害作用の最も少ない、最も有効で経済的に最高の健康化加工食品に仕上げなければならない。
わが国では、トランジスターを輸入し発展させ、ラジオ、テレビ、電算機、コンピューターとあらゆる情報精密器機を世界のすみずみまで普及しうるように発展させ、また自動車産業においても最も厳しい排ガス規制を達成し、燃費最少の最高能率の車を産出した。その発展過程に一時われわれに大きな公害を残したことはあったが、今はそれを乗りこえつつあることにその道を知ることができるはずである。
食糧資源不足の危機を救うためにも、日本の伝統ある食品加工技術の中から、めざましい開発によって近い将来に必ず仕上げるべく、消費者・国民の総力を結集しなければならない。
生かされて生きてゆく食糧がどのようなものか、また真に己が健康に生きてゆくためのそれはどうあるべきかをよくよく考え、日々食生活の改善に努めるなら、歯と口腔の健康はもちろん、心身、社会全体の健全な発達を遂げる真の文明食品を創り、未来に遺産として残すことができるはずである。
図
左:未開の状態のサモア人。
右:近代食生活をしているサモア人。歯列弓の違いに注目されたい。
右の写真は、顔面の発達が不十分で歯列弓が狭く小さい。
それゆえ叢生の状態である。これは、両親の栄養摂取が適切でなかった事の結果である。